2021年のツール・ド・フランスにおける一つの目玉となった、第11ステージの「モン・ヴァントゥ2回登坂」ステージ。
しかし、今年のツールは第1週終盤のアルプス2連戦ですでに前回覇者タデイ・ポガチャルが圧倒的な力を発揮しており、対抗馬と考えられていたプリモシュ・ログリッチやリッチー・ポート、ゲラント・トーマスも落車によって早々に総合争いから脱落したこともあり、第11ステージ突入時点で総合タイム差は以下の通りとなっていた。
大逃げによって浮上したオコーナーを除けば、総合争いにおける直接のライバルとなるリゴベルト・ウランやリチャル・カラパスに対してすでに5分以上ものタイム差をつけているポガチャル。
TTも誰よりも強く、隙のない彼を倒せるものはいないのではないか――そんな空気がすでに、漂っていた。
実際、第9ステージを終えたあと、優勝候補の1人であり今大会もここまで決して悪い走りをしていなかったエンリク・マス(モビスター・チーム)による次の言葉が、その空気を象徴している。
「僕たちはみんな表彰台のことを考えていた。ポガチャルは私たちが存在しないかのように飛び立ってしまった。僕たちは彼を逃がすべきではなかったのだけれど、前日彼が僕たちを壊滅させたあの走りを思い出し足がすくんでしまったんだ。
ここからは表彰台を巡る争いが始まるだろう。ポガチャル以外はみんなほとんど同じタイム差だから。それは観客にとっても魅力的なバトルになると思うよ」
事実上の「敗北宣言」。
これが、第1週終了時点で出てくることが、今年のこの状況の異様さを物語っている。
だが、もちろん、まだまだツールは終わってはいない。
そのことをわずかでも感じさせる走りを見せてくれたのが、このモン・ヴァントゥステージでの、ヨナス・ヴィンゲゴー(ユンボ・ヴィスマ)の走りである。
2回目のモン・ヴァントゥ、すなわちベドアンからのこの「死の山」の本来の姿である登坂距離15.7km、平均勾配8.8%の厳しい登りの果て。
その頂上まで1.5㎞の距離で、総合4位ヴィンゲゴーが加速し始めた。
当然、ポガチャルもすぐさまこれに反応する。カラパスもウランもこれに食らいつこうとするが、少し離されてしまう。さらにはケルデルマン、ルツェンコ以下他のメンバーはすべて完全に脱落してしまう。
先頭はヴィンゲゴーとポガチャル。
ここまでは、今シーズンのヴィンゲゴーの実力を考えればとくに不思議ではなかった。
だが、山頂まで残り1㎞。
ここで再び加速したヴィンゲゴーが、なんとポガチャルを突き放した。
その後、着実にそのタイム差が開いていき、モン・ヴァントゥの山頂に到達した段階では30秒差。
完全無欠と思われていたポガチャルが、初めて弱みを見せた瞬間であった。
とはいえ、この日は山頂フィニッシュではない。
この山頂から20㎞にわたり長い下りが残されており、冷静に後続のカラパス、ウランと合流したポガチャルはこの下りでタイムギャップを詰めることに成功。
最終的にはヴィンゲゴーに追い付いて、結果的にはタイム差なしでのフィニッシュを成功させた。
結果的には何も動かなかった1日。
しかし、誰も何もできないと思われていたポガチャルに対し、ほんのわずかでも反撃の可能性を見出したヨナス・ヴィンゲゴー。
今回はこの2020年代の主役の1人になりそうな男について、その来歴から含めて確認していきたいと思う。
目次
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2019年までの走り――ツール・ド・ポローニュ
ヨナス・ヴィンゲゴー。本名ヨナス・ヴィンゲゴー・ラスムッセンは、1996年12月10日にデンマーク北西部の小さな町ヒラースレフ(Hillerslev)で生まれる。
ジュニア卒業後、2016年からデンマーク国内のコンチネンタルチーム「コロクイック」に所属し、初年度でツアー・オブ・チャイナⅠ総合2位。しかしそのときの彼はまだ、早朝から正午までを魚市場で働き、午後からトレーニングに出るような生活を続けていた。
2018年には若手の登竜門レースの1つである「ジロ・デッラ・ヴァッレ・ダオスタ・モンブラン*1」初日プロローグで優勝。そしてツール・ド・ラヴニールのチームタイムトライアルで、デンマークチームを優勝に導くための重要な役割を果たした。
逆に言えば、それくらいではあった。
独走力は非常に高く、パワーのある選手という印象だが、決して注目すべき大きな理由を持つ選手ではない、という印象。
ゆえに、2019年。ユンボ・ヴィスマにてプロデビューを果たしたときにも個人的にはまったく注目していなかったし、その年、ネオプロでありながらワールドツアーレースであるツール・ド・ポローニュ第6ステージで勝利したときも、「大金星」と表現してしまうほど、意外な驚きの勝利であった。
それはポーランド南部の避暑地ザコパネを中心とした、登坂距離2.7km・平均勾配8.8%の厳しい1級山岳を5回(さらにもう1個別の1級山岳と合わせて6回)登らせる非常にタフなコースであった。
この年のポローニュは、ビョルグ・ランブレヒトの悲痛な死という出来事もあり、クイーンステージが予定されていた第4ステージがニュートラルに。
結果として、この第6ステージが総合争いにおいて重要なステージとなった。
序盤で逃げに乗ったジョフリー・ブシャールやトマシュ・マルチンスキーなど4名は残り40㎞時点で吸収。この時点ですでにメイン集団の数が30名程度にまで絞り込まれるなど、非常にサバイバルな展開が続いていた。
一つになった先頭集団からはアスタナ・プロチームのメルハウィ・クドゥスやユンボ・ヴィスマのアントワン・トールクなど、各チームのセカンドエース級の実力者たちによるアタックが頻発し始める。
さらに最後から2番目の1級山岳(残り17㎞地点)でチーム・イネオスのベン・スウィフトが独走を開始。優勝候補であったミゲルアンヘル・ロペスも、ここで脱落してしまった。
そんな中、残り12㎞地点でメイン集団からジェイ・ヒンドレー、パヴェル・シヴァコフといった今大会最強クラスのクライマーが飛び出す。
そしてここに飛び乗っていたのが、ヴィンゲゴーだった。
単独で先頭を逃げ続けていたスウィフトも、最後の1級山岳(残り6.5km)で3名に追い付かれ、そのまま突き放されてしまう。
メイン集団に20秒近いタイム差を付けたまま残り500mにまで到達した3名は、そこからたっぷりと牽制し合いながら、最後のスプリント勝負に突入していく。
先頭はヒンドレー。繰り返し後ろを振り返りながら、残る2人の出方を窺う。
2番手はシヴァコフ。スウィフトが逃げていたおかげで前に出る義務を果たさずに済んでいた彼は、最も足を残しているはずだった。
そして最も未知数な男がヴィンゲゴー。
彼は一番後ろに待機しながら、自分の仕掛け所をひたすら待ち続けていた。
残り150m。
ここでヴィンゲゴーがアクセルを踏んだ。
残る2人は気づいていない。
自らの隣に彼が現れたことにシヴァコフが気づいたときにはすでに、ヴィンゲゴーの加速は始まっていた。
ハンドルを左右に激しく振りながら必死で追いかけるシヴァコフ。しかしヴィンゲゴーとの距離は着実に開いていくばかりだった。
ヒンドレーはもう、2人を見送ることしかできなかった。
ヨナス・ヴィンゲゴー。22歳のネオプロ1年目。
おそらく多くの視聴者がその存在を初めて認識した瞬間であり、しかしこのときのこの勝利は「大金星」であり、別の言い方をしてしまえば「たまたま」であるという印象を感じさせていた。
2020年の走り――ブエルタ・ア・エスパーニャ
だが、その勝利が決してフロックではなく、間違いのない実力に裏打ちされたものであることは、続く2020シーズンにて少しずつ証明されていく。
2020年のツール・ド・ポローニュでは総合8位。昨年のプロ初勝利から着実に成長してきていることを感じさせた。
だがそれ以上に衝撃を与えたのが、その年のブエルタ・ア・エスパーニャでの活躍。
とくに第12ステージの超級アングリル峠の最終登坂。
勾配が10%を常に下回ることがないという最後の6.7㎞に突入したタイミングで、23歳のヴィンゲゴーが集団の先頭に立った。
その背後にはチームの「最強山岳アシスト」セップ・クス。そして、ブエルタ2連覇を目指すマイヨ・ロホを切るプリモシュ・ログリッチ。
この錚々たる顔ぶれを守るため、ヴィンゲゴーは20%を超える激坂を淡々とこなしつつ、残り3.6㎞までの3㎞以上の道のりを、先導し続けた。
そして残り3.6㎞でヴィンゲゴーが離れた直後、エンリク・マスがアタックを繰り出した。
クスがすぐさまこれを捕らえようとするが――ここで、ログリッチが動けない。
その様子を見たカラパス、カーシー、マーティン、ウラソフらが次々とログリッチのもとを飛び立っていき、ログリッチは危機を迎えることとなったが、そのときクスは常にログリッチの傍に立ち、彼を支え、最終的にはこの日、優勝したカーシーからわずか10秒差でフィニッシュすることに成功した。
ログリッチがこの日、大崩れしないための完璧なアシストをこなしてみせたクス。
そして、そんなクスがラスト3㎞で重要な仕事をこなすための足を残せていたのは、残り6㎞からの厳しい登りをヴィンゲゴーが先頭牽引してくれていたからでもある。
高いTT能力とツール・ド・ポローニュで見せた「パンチャー」としての素質。
しかしこのブエルタ・ア・エスパーニャで、彼は「クライマー」としての強さも確かに証明してみせてくれた。
2021年の走り――「エース」としての覚醒
そして2021年の彼はさらなる進化を加速度的に進めていく。
すなわち、これまでの「山岳アシスト」としてではなく、一種の「エース」としての活躍を。
その発端となったのが、2月のUAEツアー。
2つあるクイーンステージのうちの1つ、第5ステージの「ジュベルジャイス」山頂フィニッシュで、残り1.8㎞からのジョアン・アルメイダの加速によって引き伸ばされたメイン集団の先から飛び出したのが、ヴィンゲゴーであった。
一瞬で集団とのギャップを大きく開いていったヴィンゲゴー。
先頭を単独で逃げていたアレクセイ・ルツェンコも残り250mで捕まえ、一気にこれを突き放した。
さらに、4月のイツリア・バスクカントリー。
初日の個人TTでログリッチ、ブランドン・マクナルティ(UAEチーム・エミレーツ)に次ぐ区間3位を記録。
さらに第4ステージ。クラシカ・サンセバスティアンでも使われる「ハイスキベル」や「エライツ」といった厳しい登りを含んだハードなクラシック風味のステージで、「奇襲」をしかけたUAEチーム・エミレーツのマクナルティに対し、ログリッチではなくこのヴィンゲゴーがチェックに入った。
おかげでログリッチは後続のポガチャルのチェックに集中することができ、最終的な勝利へと結びつくこととなった。
これは、ヴィンゲゴーがもはや山岳アシストとしてだけでなく、ログリッチと並ぶ「ダブルエース」級の存在としての可能性を感じさせる瞬間でもあった。
その根拠となる要素の1つが、彼のTT能力。セップ・クスはクライマーとしては能力が非常に高いもののTTは決して得意というわけではない中で、ヴィンゲゴーのTT能力の高さとステージレースでの安定性は、ログリッチと共に総合上位を走り抜けるうえでは非常に価値の高いものとなる。
イツリア・バスクカントリーに先立つ3月のセッティマーナ・コッピ・エ・バルタリでは区間2勝と総合優勝を果たしており、2021シーズン全体を通して、着実に総合エースとしての経験と素質を伸ばしつつあった。
そして迎えた今回のツール・ド・フランス。
プリモシュ・ログリッチの早期リタイアに続き、やはりTTで好成績を叩き出していたヴィンゲゴーが、新たにエースとしてスイッチ。
その期待に見事に応える、冒頭のモン・ヴァントゥでの走りであった。
もちろん、チーム監督のメリーン・ゼーマンは、「長期的な計画」をもっており、過剰なプレッシャーを彼に与えるつもりはないと語っている。
そしてヴィンゲゴー自身もモン・ヴァントゥでの走りは「気分が良かった」からであり、計画のないところで放った動きであることを強調。今後も、足の調子次第で行くかどうかを決めるという。
それでも、やはりファンとしては期待したいところ。
ここまでの13日間において、唯一ポガチャルを上回る瞬間を見せた男、ヨナス・ヴィンゲゴー。
来年の地元デンマーク開催となるツール・ド・フランスに向けて、そこでの真の「ダブルエース」実現に向けて、週末のアンドラ山岳ステージ、および3週目の2つの「超級山岳山頂フィニッシュ」でどこまで走れるのか、に注目していきたい。
2019年の世界王者マッズ・ピーダスン。
今年ロンド・ファン・フラーンデレンを制したカスパー・アスグリーン。
次々と若き才能が輩出されつつあるデンマークから現れた、ツール・ド・フランスの頂点を目指しうる若きオールラウンダー、ヨナス・ヴィンゲゴー。
本当の覚醒は、もしかしたらこの週末に、見られるかもしれない。
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*1:ティボー・ピノ、ファビオ・アル、パヴェル・シヴァコフ、マウリ・ファンセヴェナントなどを総合優勝者として輩出しているU23限定のアルプス山岳ステージレース。