サウジ・ツアー第3ステージ。バーレーン・マクラーレンがトレインを形成し集団の先頭をひた走る。
残り500mでハインリッヒ・ハウッスラーが離脱し、先頭はフィル・バウハウスに。その背後にマーク・カヴェンディッシュが控えており、この日は彼がエースであると誰もが信じていた。
しかし、残り300m。カヴェンディッシュが突如、失速。
その背後で構えていたナセル・ブアニも、自分が踏み台にしようとしていた相手がいきなり失速し、逆にその前にいた男がそこからさらに加速した事態に、ついていけなかった。
さらにその後方からNTTプロサイクリングのレイナルト・ヤンセファンレンズバーグが加速して伸びてくるが、残り数百メートルという状況で、カヴェンディッシュとバウハウスとの間に開いたわずかなギャップは致命的であった。
カヴェンディッシュだったからこそできた戦術。そして、カヴェンディッシュほどの男が、覚悟を決めたからこそできた戦術。
その思いは、ゴール後に気持ちよくガッツポーズを見せる彼の姿にしっかりと表れていた。
これが、マーク・カヴェンディッシュが新チームで見出した「新たな走り」なのか?
サウジ・ツアーの全5ステージを振り返りながら、その真相を追っていきたいと思う。
スポンサーリンク
第1〜第3ステージ
T-モバイルやHTCコロンビアにて最強スプリンターとして鳴らしたマーク・カヴェンディッシュは、その後スカイプロサイクリング、オメガファルマ・クィックステップと籍を移し、2016年からはディメンションデータ(現NTTプロサイクリング)にて腰を据えた。
2016年のツール・ド・フランスこそ、マーク・レンショー、ベルンハルト・アイゼルら盟友と共にステージ4勝を飾るなど復活を印象付けた彼だったが、翌年のツール・ド・フランスではペテル・サガンとの接触により早期のリタイア。その翌年からも振るわず、昨年はいよいよ、ステージ勝利のないシーズンを過ごした。
2006年にプロデビューを飾って以来、初の経験であった。
そんな彼が、昨年の9月にバーレーン・マクラーレンへの移籍を発表。
理由はいくつか考えられる。ディメンションデータが彼のツール・ド・フランス出場を拒否したことや、かつての彼の恩師であるロッド・エリングワースがバーレーンの新たなGMに就任することなどーーいずれにせよ、一時代を築いた元最強スプリンターは、35歳になる年に、新天地への旅立ちを選ぶこととなった。
ここで彼が「復活」を遂げることができるのか。それとも、変わらず不調のまま沈んでいってしまうのか。
そんな期待と不安とが入り混じる中、2020シーズン新チームでの開幕戦を、このサウジ・ツアーで迎えることとなった。
サウジ・ツアーは今年初開催のレース。ツール・ド・フランスと同じくA.S.O.が主催するレースであり、かつて開催されていた同じA.S.O.主催のツアー・オブ・カタールを継承するかのような、中東のスプリンター向けステージレースである。
そんなサウジ・ツアーで、誰もがこのバーレーン・マクラーレンのエースはカヴェンディッシュであると信じていたに違いない。何しろ彼は、このレースのある意味「前身」たるカタールで2度の総合優勝を果たしており、前回の勝利である2018年の唯一の勝利もドバイ・ツアー。何かと中東とは相性が良いのがカヴェンディッシュである。
そもそもチームから与えられたゼッケンNo.もエースナンバーの1番。英語実況も常にバーレーン・マクラーレンについて言及するときにはカヴェンディッシュの名を先に呼んでおり、今回のバーレーンはカヴェンディッシュを明確にエースに据えている、そんな雰囲気が漂っていた。
実際に、チームもそのつもりでいたのかもしれない。しかし、第1ステージ。全ステージ中唯一の「登りスプリント」といってよいこの日のフィニッシュレイアウトは7%程度の登り勾配。
ラスト1㎞で20秒差を残していた逃げ集団の中からチームメートのハインリッヒ・ハウッスラーが抜け出したものの、一気に追いついたメイン集団から飛び出したルイ・コスタがこれを追い抜き、そのまま先頭でフィニッシュしてしまった。
このとき、バウハウスが6位でフィニッシュする一方、カヴェンディッシュは15秒遅れの34位でフィニッシュしている。
このあとのステージはすべてピュアスプリントフィニッシュでおり、総合争いは確実に秒差の争いとなる。
15秒の遅れは実質的に総合争いからの脱落となる。この時点で、チームとしての優先度は明確にバウハウスが上位に来ることとなった。
実際、続く第2ステージでは、ゴール前1㎞の時点でカヴェンディッシュがバウハウスの前につけており、彼を勝たせるための発射台としてカヴェンディッシュが働くことを明らかにしていた。
その後は、リードアウト要員の1人だと思っていたハウッスラーが残り1㎞で抜け出す奇襲アタックを仕掛け、ここにブリッジしたニッコロ・ボニファツィオがそのままハウッスラーを突き放して勝利を飾るというサプライズが起きたものの、その後方でブアニを差し切って2位につけたのはバウハウスであった。
カヴェンディッシュはこの日も12秒遅れの44位。最後の1㎞で彼がどんな働きをしたのかは分からないが、自らの勝利のためではなく、バウハウスを勝たせるための走りをしていたのは確かだろう。
それでも、彼は天下のカヴェンディッシュである。このままただのアシストで終わるわけはない、と多くのファンが心のどこかで思っていたはずだ。
それはもしかしたら、ライバルチームの選手たちも。
だからこそ、第3ステージで、残り500mでバウハウスがカヴェンディッシュの前で先頭に立ったとき、この日はカヴが行くのか!と思ってしまったのも、無理のないことであった。それは、その選手が「あの」カヴェンディッシュだったからこそ、成立した詐術だったのだ。これがディラン・フルーネウェーヘンでも、フェルナンド・ガビリアでも、もしかしたら成立しなかったかもしれない。
いずれにせよ、この第3ステージでの成功により、バウハウスは総合首位に立った。そして総合2位ルイ・コスタには3秒差、直接のライバルたりうるナセル・ブアニには8秒差をつけることとなった。
このままなら総合優勝は盤石。そう思えた中で、波乱の第4ステージを迎える。
第4〜第5ステージ
第4ステージは残り47㎞と残り25㎞で登りを含むものの、登坂距離3.5㎞、平均勾配6%と決して厳しくはなく、ゴールまでも距離がある登りのため、何の問題もなく集団スプリントになるだろうと予想されていた。
しかし、残り25㎞、最大の勝負所となるこの登りの麓で、まさかのバウハウスのパンク。これ幸いと、ルイ・コスタ率いるUAEチーム・エミレーツがペースを上げて集団を牽引。バウハウスと彼らとのタイム差が1分以上に広がるという危機に瀕することとなった。
このとき、チームメートたちが当然、バウハウスのために全員下がってくる。そしてバウハウスを牽引し始めるのだが、その一番手となったのが、ゼッケンNo.1をつけるカヴェンディッシュであった。
しかも、登りで、である。
このときのカヴェンディッシュ、そしてその後に続いたハウッスラーやヤン・トラトニク、アルフレッド・ライトらの献身的な働きによって、なんとかバウハウスは集団に復帰。
それでも最後は足が残っておらずスプリントで10位フィニッシュ。ブアニがステージ優勝でボーナスタイム10秒を丸々手に入れたことで総合は再逆転されてしまうが、それでもタイム差は2秒に留め、最終日の逆転に望みをつなぐこととなった。
この日、この挽回の立役者となったカヴェンディッシュは最終的には10分遅れでフィニッシュに。第3ステージに続き明確なアシストとしての働きを見せた彼は、明らかにこれまでとは違った走り方を見せているように思えた。
そして最終ステージ。これまでのような混乱はなく、純粋な集団スプリントで決着したこの日は、ラスト200mまで本気のリードアウトを見せたカヴェンディッシュが完璧な形でバウハウスを発射。
偉大なる名スプリンターの最高のアシストを受けた25歳のドイツ人スプリンターは、ライバルのブアニからボーナスタイム4秒を奪い取る渾身の2勝目を獲得。
見事、総合再々逆転による総合優勝を果たすこととなった。
最後は、わずか2秒のタイム差による決着。
そしてこの2秒を作り上げる上で、たしかに重要な働きをし続けたのが、マーク・カヴェンディッシュという男であった。
カヴェンディッシュの未来
それでは、これからのマーク・カヴェンディッシュは、今回のように「アシスト」として輝くことになるのだろうか。彼は純粋なエーススプリンターとしては勝てないことを悟り、そのように覚悟したのだろうか。
いや、そうではない、と私は思う。今回も、第1ステージでのあの遅れがなければ、やはりカヴェンディッシュがエースのまま進んでいくシナリオはあったはずだ。
そして、最終日に見せたカヴェンディッシュの完璧なリードアウト。あの走りは、エーススプリンターとしても走れる実力がなければできないものであったように思える。
カヴェンディッシュも、決して諦めているわけではない。このチームに来るにあたって、次のように述べている。
「もし僕が、自分がなぜ勝てないのかを知らなかったら、僕は今すでにこの競技を辞めていたことだろう。僕が今まで築き上げてきた遺産を傷つけるべきではない。
でも僕は、自分がなぜ勝てないのか、その理由を知っている。そしてまた、もう一度勝てるようになることを。だから僕はまだ自転車に乗り続けている。僕はとてもリラックスしているんだ。ただ未来だけを見つめ続けている」
カヴェンディッシュは勝つことを明確に求めているし、その自信も持っている。
ただ、彼はもはや彼が絶対のエースとして走ることだけを求めてはいない。彼は彼のチームメートが彼のアシストを受けて走ることを柔軟に受け入れている。
それは今回のサウジ・ツアーではっきりと示されたのであり、それはチームに大きな良い影響を与えることになるだろう。
それはちょうど、フィリップ・ジルベールが35歳になる年にクィックステップに移籍してきたときと同じようなものかもしれない。
あのときのフィルも、決して良い状態ではなかったように思える。その中で新天地にやってきて、いきなりドワースドール・フラーンデレーンでチームの若き次世代のエース候補のための走りを見せた。現在の「ウルフパック」の原型を作った男は、レジェンドでありながらもチームメートのための献身がを見せる男であった。
そしてあのときのジルベールは、その後、ロンドで自らにとっても大きな勝利を成し遂げた。
単純な比較はできないものの、マーク・カヴェンディッシュもまた、今回のサウジ・ツアーのような献身的な走りをしてみせた先に、彼自身の偉大な「未来」が見えているのかもしれない。
最後に、カヴェンディッシュの恩師エリングワースの言葉をもって締めくくるとしよう。
「彼はまだ年老いているわけではない。まだ34歳でしかない。むしろ成熟しつつある若者だと言うことができる。たしかに彼は病気やチームの問題を抱えていたかもしれない。でもそれらの問題がすべてなくなってしまったら?
もしそうなったら、彼はツールで勝てるだろうか。そして、(エディ・メルクスの偉大なるツール34勝に挑むという)彼の壮大なる夢を再び追い求めることができるだろうか?」
マーク・カヴェンディッシュはまだまだ終わらない。むしろ、ここからが彼の第3のステージだ。
スポンサーリンク