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ブライアン・コカール、6年前の「あの数センチ」を超えるとき

 

南フランスで開催中の「ツール・ド・ラ・プロヴァンス」。

その第2ステージ、アルルからマノスクに至る183㎞の丘陵アップダウンステージで、そのラスト2㎞の登りスプリントを制し、コフィディスのブライアン・コカールが今期2勝目を遂げた。

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チーム・ユーロップカー時代にツール・ド・フランスのパリ・シャンゼリゼにて2位。フランス期待の若手スプリンターとして将来を嘱望されていたが、2018年からのチーム移籍以降、ツール・ド・フランスにも出場できず、どこか歯車の噛み合わないような不遇の時代を過ごすこととなった。

2020シーズンは1勝のみ。そして2021シーズンは勝利なし。

このまま、彼もまた「かつて強かった選手」の1人として、歴史の地層の中に埋もれてしまうのか――そんな風に、思っていた。

 

だが、ここに来て、1週間前のエトワール・ド・ベセージュ第2ステージに続く、2勝目。しかもいずれも、ピュアスプリントというよりは、厳しい登りを前にして、彼以上の実績をもつ男たちを相手取っての、粘り強さを見せた実に見ごたえのある勝利であった。

 

ブライアン・コカールは復活したのか? 新チームで迎える今シーズンの彼には、期待してもよいのか?

 

その結論を下すにはまだまだ早すぎるとは思うが、ここで一旦、彼のこれまでの経歴と、栄光と苦悩、そして今年の「2勝」について、しっかりと振り返っていこう。

 

目次

 

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デマールと並ぶ「カヴェンディッシュハンター」として

ブライアン・コカールは、1992年4月25日、フランスのペイ・ド・ラ・ロワール地域圏ロワール=アントランティック県にある、サン=ナゼールという漁業の盛んなコミューンで生まれた。

7歳のときに地元のクラブチーム、ルス・ポンシャトーでサイクリングを始め、2008年にはボルドーのCREPS*1サイクリング部門にてトレーニングを受け、2009年にはトラックレースのオムニアムにてジュニア世界王者に。

翌年には2度目のジュニア世界王者に輝くと共に、2012年のロンドンオリンピックでは、エリートに混じって出場し、見事銀メダルを獲得。

世界最高のスピードマンとしての素質を明らかにしていく。

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2013年にチーム・ユーロップカー(現トタルエナジーズ)とプロ契約を結び、プロロードレーサーとしてデビュー。地元ペイ・ド・ラ・ロワール(ヴァンデ)を拠点とするチームであり、かつて新城幸也も所属していたチームでもある。

そのプロキャリア「2日目」であるエトワール・ド・ベセージュ第2ステージで、いきなりの勝利。

トラックレースで培ったスプリント力がロードレースの舞台でも十分に通用することを証明し、同時期のツアー・ダウンアンダーでアンドレ・グライペルに続く2位フィニッシュを果たしていたアルノー・デマールと共に、フランスの未来を担い、そしてツール・ド・フランスで当時最強を誇っていたマーク・カヴェンディッシュを倒しうる存在として、大きな注目を集めていた。

 

 

その後、直後のツール・ド・ランカウイでさらに2勝。ツール・ド・ピカルディではマルセル・キッテルすら打ち破り、ネオプロ1年目となる2013年に実に6つものプロ勝利を重ねた。

2014年にはツール・ド・フランスに初挑戦し、4位が2回、5位が1回と好調を記録。

そして2015年。2度目のツール・ド・フランスで彼は、「スプリンターの世界選手権」パリ・シャンゼリゼにて、アンドレ・グライペルに続く区間2位を記録することとなる。

ペテル・サガンも、アルノー・デマールも、そしてマーク・カヴェンディッシュすら退けて、プロ3年目、23歳となっていた彼は、早くも世界の頂点を一歩手前にまで辿り着いていたのである。

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翌2016年はさらに好調であった。

年初のエトワール・ド・ベセージュで開幕2連勝。ブエルタ・ア・アンダルシア前のトレーニング中に右肩甲骨を骨折するというアクシデントに見舞われパリ~ニースには参加できなかったが、代わりにドワースドール・フラーンデレンで2位、アムステルゴールドレースで4位といった、クラシックでの好成績を重ねることに成功するなど、彼の才能のさらなる深化を見せることとなった。

5月のダンケルク4日間レースでは5ステージ中3ステージで優勝、残り2ステージでも2位と圧倒的な強さで総合優勝。

さらにツール・ド・フランス前哨戦となるルート・デュ・スッド(現ルート・ドクシタニー)でもアルノー・デマールを退けて開幕2連勝するなど、最高のコンディションで自身3度目のツール・ド・フランスを迎える。

 

第1ステージで7位、地元ペイ・ド・ラ・ロワールで開催された第2ステージでも3位と好調さを維持していたコカール。

そして第4ステージ。ペイ・ド・ラ・ロワールからさらに南下したところにあるフランス中部の町リモージュへとフィニッシュする超距離ステージのフィニッシュ。

わずかに登る、コカール向きのこのスプリントフィニッシュで、彼はそのキャリアで最高のスプリントを見せる。

 

 

対するは当時最強のスプリンターであったマルセル・キッテル。

そんな彼も、前年の2015年には病気によってツール・ド・フランスにも出場できず、この2016年のツール・ド・フランスでも、最初の2つのスプリントステージをともにマーク・カヴェンディッシュに奪われるなど、苦しい時を過ごしていた。

 

そんな彼が、残り300mで先頭に飛び出したのち、アンドレ・グライペルが沈み、ペテル・サガンもアレクサンデル・クリストフもこれに追い付けないままでいるそのとき、残り150mから突如、左後方より飛び出してきたのがブライアン・コカールであった。

 

170㎝59㎏の小さな体を左右に激しく振り動かしながら、彼はペダルを一踏みするごとに着実に加速し、そしてやがてサガンもクリストフも追い抜いていく。

そしてフィニッシュライン直前で、彼はキッテルと肩を並べる。

それどころか彼は一瞬、その肩をキッテルよりも前に突き出したのである。

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だが、最後のバイク投げがわずかに足りなかったか。

フィニッシュ直後、一瞬右手を挙げかけたコカールだったが、すぐにそれは引っ込められた。

キッテルもコカールも、互いに自らの勝利がわからないまま不安な時を過ごしていた中で、やがてスクリーンに映し出されたのは、ごくわずかの差で届かなかったコカールの前輪であった。

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叫び、歓喜し、最後はサドルに顔をうずめて涙を流し始めるマルセル・キッテル。それだけ、彼にとってもこの久しぶりのツール・ド・フランスでの勝利は、大きな価値を持つものであったのだろう。

一方で、コカールも実に悔しそうな表情でその日を終えることとなる。それでも彼は、レース後に前向きなコメントも残している。

 

今、僕は偉大なるスプリンターたちと共に戦えている。自分自身の力でこれだけのことができていることが誇らしい。今日の僕は出せる力のすべてを出し切っていたし、結果はより強い者が勝ったというだけだ。まだ多くのチャンスが残っている*2

 

右肩上がりの成長を続け、世界トップクラスの舞台でまさに競り合う姿を見せ続けているブライアン・コカール。

そのままの状態で年を重ねることができれば、その「チャンス」はすぐにでもその手の中に収められることはありえたであろう。

 

 

だが、そうはならなかった。

 

彼は、このツール・ド・フランスでの2度目の2位を最後に、「失望」の時代を迎えることとなる。

 

 

失望の時代

2017年5月。ブライアン・コカールは、5年間を過ごしたジャン=ルネ・ベルノード―GMのチームを去ることを宣言した。

それはチームへの迷惑を最小限に抑えるための早い段階での告知であったが、同時に彼は、その年のツール・ド・フランスへの出場権を失う可能性が浮上することも覚悟していた。

 

そしてそれは現実のものとなった。過去3回のツール・ド・フランスにおいて、常に上位にランクインするだけの実力を見せていたチームのトップスプリンターを、ベルノードーはツール・ド・フランスに連れていかないことを決定した。

彼は言う。

 

シーズン初め、ブライアンは非常に強く、そのままであれば彼がツールのリーダーとなることは疑いようがなかった。問題はこの数週間だ。

 クリテリウム・ドゥ・ドーフィネでは、彼はスプリントでアルノー・デマールを苦しめることさえできなかった。日曜日のフランス選手権では、彼はデマールについていくことさえできなかった。それが彼に与えられた指示だった。ある時点から、誰の状態が良くて、誰の状態が悪いのか、客観的に見る必要があった。

 コカールが過去2か月の間にデマールを一度倒したか、少なくとも彼が彼を倒せることが証明された場合には、別の選択肢があっただろう。ツール・ド・フランスは最高の状態の選手たちのためにある。ブライアンはそのメンバーの一人ではなかった。それだけだ*3

 

大いなる失望と共に、コカールは彼の最初のプロチームでの最後のシーズンを過ごし、そして新たに創設された「ヴィタルコンセプト」というチームへと移籍することが決まった。

それは2015年末に引退したジェローム・ピノ―によって創設されたチームであり、3年以内のワールドツアーチーム昇格を目指していた。

元FDJのケヴィン・レザ、ロレンツォ・マンザンや元チームメートのジュリアン・モリスらが共に走ることとなるこのチームのエースとしてコカールは君臨し、当然のことながら、ツール・ド・フランスでは最大のサポートを得ることが保証されていた。

 

 

しかし、この選択は彼にとって、大きな過ちだったのかもしれない。

 

確かにチームのエースの座は保証されていたが、肝心のツール・ド・フランスへの出場権に関しては、コフィディス、ディレクトエネルジー、チーム・フォルテュネオ・サムシック(現アルケア・サムシック)、そしてギヨーム・マルタンの所属するワンティ・グループゴベール(現アンテルマルシェ・ワンティゴベールマテリオ)との争いに敗れ、その「チャンス」を始まる前から失うこととなったのである。

しかも、それは2年に渡って続いた。

2017年の欠場から3年続けて、彼はツール・ド・フランスの舞台に足を踏み入れることすら許されなかったのである。

 

 

13勝を遂げた最高のシーズンであった2016年のあと、彼は2017年には5勝、2018年にはわずか3勝と、彼自身のコンディションにおいても苦しい時期を過ごしていた。

2019年の冒頭のインタビューにおいても、彼は「自分に自信がなくなっていた」と述べている。

 

スプリンターは頻繁に勝つ必要があり、それに対して当時の自分は競争力を失い、自信すらも失くしていた。

 実際、当時の僕は自分が他のスプリンターたちを恐れ、彼らより速くなく、彼らに勝つことはできないんだと自分に言い聞かせてすらいた。それは本当に驚くべきことだった。それまでは強いスプリンターがいることを知っていても、『うまくいけば勝てるかもしれない』と思っていたくらいだったのに。状況が複雑になり、うまくかみ合わなくなって、勝てる力学的な状態の中にいることができなくなって、僕は恐れ、そしてそれがすべてを悪くしていたんだ*4

 

2019年もツール・ド・フランスに出場できないことを知ったときも、彼はどこか諦めたような口調で「言うことはあまりない。興味はない」と述べていた。

2020年になってようやく、チームに新たに合流したツール・ド・フランスの英雄の1人、ピエール・ロランの存在もあってか、ツール・ド・フランスへの出場権を手に入れることに成功したが、そこでも3位や4位には入ったものの、かつてのような勝利への勢いというものを感じることはなかった。

 

 

早くも彼は、「過去の人」となってしまったのか。

そんなネガティブなイメージと共に報じられた、2022シーズンの「コフィディス移籍」。

エリア・ヴィヴィアーニやクリストフ・ラポルトを失ったチームにとってもその穴を埋める存在として期待していての獲得であっただろうが、この2年たったの1勝しか果たせていないフランスの「元・期待の若手スプリンター」の存在に、それほど大きな注目が寄せられることがなかったとしても、決して不思議ではなかった。

 

 

だが、その雰囲気を彼は自ら打ち砕いた。

すなわち、新チームで迎えた最初の9日間の中に数え上げた、2つの鮮烈なる勝利でもって。

 

 

「あと数センチ」を超えられたとき

エトワール・ド・ベセージュ。

過去通算8勝も挙げている、コカールにとっては非常に相性の良い南フランスのステージレース。

新チームで迎えたシーズン序盤のレースとして、数日前のグランプリ・シクリスト・ラ・マルセイエーズでの6位に続き好成績を挙げていきたいブライアン・コカール。

チームにとっても前年、初日登りスプリントステージをクリストフ・ラポルトが制していただけに、彼の「代わり」でもあるコカールへの期待は非常に大きかったに違いない。

 

第1ステージはこの地域特有のミストラルの影響で集団が大分裂し、その煽りを受けたのかコカールも41秒遅れの集団の中に身を置き、29位でフィニッシュ。勝負に絡むこともないまま、まずは初日を終えることとなった。

一方の第2ステージ。ここでは前日のような大混乱に陥ることなく、大集団のままフィニッシュへ。

ただし、この日のラストは1㎞の平均勾配が12%という超激坂でのフィニッシュ。

いくら登りに強い小柄のコカールとはいえ、さすがに分の悪いフィニッシュレイアウトであるように思われた。

 

だが、ラスト200m。先行したコナー・スウィフトの背後から、前日覇者マッス・ピーダスンが加速して一気に先頭に突き出ると、これを追っておよそ4番手の位置からブライアン・コカールがペースを上げていった。

残り175mでトビアスハラン・ヨハンネセンと並び、3番手に浮上。

さらに残り125mでトタルエナジーズのマチュー・ブルゴドーを追い抜いて、ピーダスンのすぐ背後にまで迫る。

 

それはまさに、2016年のあのリモージュで見せた、マルセル・キッテルへの肉薄スプリントを思い起こさせるような力強い走りであった。

あのときはわずか数センチ届かなかったコカール。

だが今回は、残り75mでピーダスンに並びかけ、そしてそのまま、一瞬ピーダスンに再び先行を許す瞬間もあったが、最後までペダルを踏み続けることを諦めることなく――そして、最後の最後、ついにピーダスンは諦めて肩を落とした。

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天に向かって突き上げられた右腕。

それは彼にとって2年ぶりの勝利であると同時に――ある意味で、あの6年前、世界の頂点に限りなく近づいていた「あの瞬間」へと戻りつつあることを象徴するような、そんな強い勝ち方であった。

 

それはとても難しいフィニッシュだった。ピーダスンがその足を止めることは決してないだろうと思っていたから、それを抜き去ることができるとは思っていなかった。それは暴力的なフィニッシュであり、それはスプリントの速度というよりも、強さの問題であった。残り150mで僕は自分の持てる限りの力をすべて使い果たし――それは短いと同時に果てしなく長い道のりであった*5

 

多くのスプリンターにとって、勝ちきれなかったときの数センチというのは、永遠とも思える長さを意味する。

その数センチの悪夢を、元世界王者に対して成し遂げたこの勝利で、彼は少しでも埋めることができたのだろうか?

 

 

その思いを補強する「2つ目の勝利」は、すぐさまやってきた。

そして今度は、「現世界王者」に対する、勝利であった。

しかも過去2回、キッテルとピーダスンに対するそれのように「追いかけての勝利」ではなく、彼は今度は「自ら仕掛け、そして突き放す」勝利を成し遂げた。

 

 

ツール・ド・ラ・プロヴァンス。

グランプリ・シクリスト・ラ・マルセイエーズ、エトワール・ド・ベセージュに続き、南フランスで行われるプロシリーズのステージレース。

歴史は浅いが出場する選手は豪華で、昨年に続き現世界王者ジュリアン・アラフィリップもシーズン開幕を迎えるレースとなった。

 

 

その、第2ステージ。プロローグを含めると3日目となるこの日は、アルルからマノスクまでの183㎞丘陵ステージ。最後は2㎞にわたる登りフィニッシュとなっており、スプリンターというよりはパンチャー、それこそジュリアン・アラフィリップやイネオス・グレナディアーズのイーサン・ヘイターなどに向いているフィニッシュレイアウトとなっていた。

コース詳細はこちらから

www.ringsride.work

 

そんな中、コフィディスはこの日、エトワール・ド・ベセージュでも登りスプリントでの粘り勝ちを見せていたブライアン・コカールを信頼し、チーム総出でのレースコントロールを敢行していた。

とくに残り33㎞から始まる2級山岳コル・ドゥ・レア・デマスコ(登坂距離6.6㎞、平均勾配4.8%)の登りにおいて、昨年のジロ・デ・イタリア山岳ステージで逃げ切り勝利を果たしているヴィクトル・ラフェが集団の先頭に立って、一気にペースアップ。

この加速によって集団からはスプリンターのエリア・ヴィヴィアーニが遅れ、さらに下りにおいてはこの日の優勝候補でもあったイーサン・ヘイターが脱落するなど、コフィディスとブライアン・コカールにとって良い状態へと展開を進めつつあった。

 

問題は最初の逃げに乗っていた5名のうちの生き残りであるアレクシー・グジャール(B&Bホテルス・KTM)。2015年ブエルタ・ア・エスパーニャでも逃げ切り勝利を果たしている生粋のエスケーパーが、登りで1分差まで詰めた集団との距離を、単独でキープし続けながら残り10㎞までこれを保ち続けていた。

 

いよいよ、ラフェも脱落し、ルーベン・フェルナンデスが代わって先頭に躍り出る。

また、それまで静観していたクイックステップ・アルファヴィニルやトレック・セガフレードも、さすがにグジャールの逃げ切りの危険性を感じ始め、集団牽引に人を出し始める。

クイックステップのルイス・フェルファーケの献身的な牽引によって徐々に縮まっていく先頭グジャールと集団とのタイム差。

残り5㎞からはAG2Rシトロエン・チームも集団牽引を開始し、ついに残り1.8㎞。グジャールが吸収されて集団は1つになった。

 

そして、登りが始まる。

と、同時に、集団からコフィディスのピーエル=リュック・ペリションがアタック。

2020年のブエルタ・ア・エスパーニャで、ギヨーム・マルタンの山岳賞獲得を強力にアシストした大ベテランが、このラスト1.5㎞で鋭いアタックを見せ、一気に集団とのタイム差を4秒近くまで開いていく。

 

これを追いかける役目を担わされたのがクイックステップ・アルファヴィニルの最後のアシスト、ドリス・デヴェナインス。

本来であればフィニッシュ直前、(いつものアルデンヌのように)ジュリアン・アラフィリップにとっての最高の発射台の役割を担うはずだった彼が、このラスト1.5㎞というまだ距離がある段階で足を使わされる羽目に。

結果、ペリションを引き戻すことには成功したものの、残り350mでデヴェナインスは脱落。

これを受けて集団からはピエール・ラトゥールがアタックするが、ここでブライアン・コカールが、すぐさまその後輪に飛び乗った。

 

デヴェナインスの背後にいて、総合リーダージャージを着ていたフィリッポ・ガンナも、左後方で動き出したラトゥール発ちに反応し、ペダルを踏んでスプリントを開始するが、稀代のTTスペシャリストもこの登りスプリントの加速においては歯が立たなかった。

ガンナも、そして失速したラトゥールも追い抜いて先頭を突き進んでいくブライアン・コカール。

その背後から、この日最大の優勝候補である2年目の世界王者、ジュリアン・アラフィリップがスリップストリームに入りながらコカールの背後を追った。

 

残り300mから発射したブライアン・コカール。

対して、残り150mからスプリントを開始したジュリアン・アラフィリップ。

その実績、実力から言っても、コカールにとっては分の悪い戦いではあった。

 

 

しかし、残り100mを切っても、彼の勢いは衰えなかった。

それどころかさらに速度を増し、背後に迫る世界王者に横を並ばせることすらなく――そのまま、彼は「数センチのその先」の風景を目の当たりにした。

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この2勝目をもって、止まっていた時計は動き始めた。

あのとき、届かなかった距離。「多くのチャンス」を、得る前から失っていた数年間への、決別の時が訪れたのである。

 

もちろん、まだまだシーズン序盤の1クラスやプロシリーズといった小さなレースでしかなく、アラフィリップもまた、風邪の影響でコンディションが万全ではなかったことは事実だろう。

それでも、この勝利は、失っていた彼の自信を取り戻させ、再び世界の頂点の舞台にてその実力をすべて出し切るチャンスに繋がる、重要な勝利であったことは間違いない。

 

 

今年は彼にとっての初のワールドツアーチームということで、2014年以来の出場となるミラノ~サンレモへの参戦も決まっている。今回のこの2勝は、そのミラノ~サンレモに向けても期待のできる走りと言えるだろう。

ただ、もちろん彼にとっての最大の目標は当然、ツール・ド・フランスである。6年前のあの日を最後に遥か遠くに追いやられていたあの栄光までの数センチを、今度こそしっかりと走り抜けることができるのか。

 

 

ブライアン・コカール。栄光と失望を経験した男の「10年目」が、幸多いものとならんことを強く願う。

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