2011年ミラノ~サンレモ。
当時リクイガスに所属し、26歳だったヴィンツェンツォ・ニバリは、4度目の参加となったこのミラノ~サンレモの最後の勝負所「ポッジョ・ディ・サンレモ」でアタックを繰り出した。
このアタックでライバルたちから抜け出せたわけではなかった。それでも、集団のペースを上げ、8名の小集団が形成されるきっかけにはなった。
そして、独り先行していたグレッグ・ファンアフェルマートを抜き去り、小集団はそのままスプリント勝負を開始する。
勝ったのはオーストラリア人のマシュー・ゴス。ニバリは、この小集団の最後尾で、3秒差8位という結果に終わった。
翌年のミラノ~サンレモで、再びニバリはポッジョ・ディ・サンレモでアタックした。
今度は、多くのライバルたちを置き去りにして先頭に立つことができた。
ただし、サイモン・ジェランとファビアン・カンチェラーラという、2人の強力なライバルがついてきてしまったため、結局のところ、勝利を手に入れることはできなかった。
それでも、3位。クライマーであり、本来であればこの大会で優勝候補に上がることすらないはずの彼が、表彰台に立つことができたのだ。
この時点で、イタリア人によるミラノ~サンレモ優勝は2006年のフィリッポ・ポッツァート以来、6年間遠ざかっていることになる。
ニバリにかけられた期待は大きいものであっただろう。
2012年ミラノ~サンレモ。ポッジョ・ディ・サンレモでの勇気あるアタックの末、集団スプリントではない形でラストを迎えるという最大のチャンスを手に入れたニバリだったが、ジェラン、カンチェラーラという2人のスプリント力の高い強力なライバルを前に完全に打ちのめされてしまった。
しかしその翌年。
2013年のミラノ~サンレモは大雪に見舞われ、アスタナに移籍したばかりのニバリは途中リタイアという悔しい結果に陥る。
また、2014年のミラノ~サンレモではポッジョ・ディ・サンレモではなくチプレッサでアタックするという新しい動きを見せたものの、結局は集団に飲み込まれ、勝負できずに終わった。
やはり、ミラノ~サンレモはスプリンターのためのクラシックなのか。
クライマーであり、イル・ロンバルディアで2勝しているニバリには、向いていないレースだったのか。
ニバリもそのことはよく分かっていたに違いない。
それでも、彼はほぼ毎年、このミラノ~サンレモに挑むこととなる。
彼はイタリアを愛しており、このミラノ~サンレモも強く愛していた。
そして今年、イタリアの神様は彼に微笑むこととなる。
とは言え、ニバリは決して、最初から優勝を狙っていたわけではなかった。
実際、ラスト12kmを過ぎた辺り、ポッジョ・ディ・サンレモ突入まで残り3kmを切った重要な場面で、彼はチームのエーススプリンター、ソニー・コルブレッリのアシストとしての走りを見せていた。
先日のGPインダストリア&アルティジアナートでは得意の下りからの独走で勝利を果たした名ルーラー、モホリッチが先頭を牽引。
その背後でニバリが、過去最高6位を記録しているチームのエース、ソニー・コルブレッリを牽引する。
ニバリによるコルブレッリのアシストは、すでにドバイ・ツアー第4ステージ(ハッタ・ア・ダム頂上ゴール)でも披露している。
このとき、コルブレッリはニバリたちの献身に応え、見事ステージ優勝を果たしている。
ポッジョ・ディ・サンレモの短くも厳しい地点を含む登りにおいて、コルブレッリに最高の位置をキープするためにも、ニバリの存在は非常に重要であった。
事実、こんな場面もあった。ラスト10.6km。
FDJトレインの先頭を牽引し続けていたリトアニアチャンピオン、コノヴァロヴァスが仕事を終えて落ちていくとき、彼はモホリッチとニバリの間に入り込むような形になっていた。
そのとき、ニバリが右肩で彼の動きを抑え、しっかりと進路を確保。
この動きは自らを集団の先頭にキープすると共に、当然、背後のコルブレッリのポジションを守るための動きにもなっていた。
しかし、このときのニバリの冷静な動き、そして的確な力加減など、さすがベテラン、といったところである。
そしてニバリが動きを見せたのが、ラスト7.1km。
ポッジョ・ディ・サンレモの山頂付近、イスラエル・サイクリングアカデミーのラトビアチャンピオン、クリスツ・ネイランズのアタックに反応する形で飛び出した。
ただしこれも、ニバリが自らの勝利のために飛び出したのか、というと恐らく、そうではなかったと思われる。
この時、バーレーン・メリダで先頭に残っていたのは3名。ニバリと、コルブレッリと、モホリッチの3名だ。
このうち、モホリッチは既に、ラスト12kmからほぼずっと、先頭を牽引し続けていた。登りに入ってからも、ボーラ・ハンスグローエのマーカス・ブルグハートやBMCのジャンピエール・ドラッカーのアタックに対し、集団の先頭牽引をひたすらこなし続けていた。
ここにきて、ネイランズのアタックに反応し追走を続ける力がモホリッチに残っているとは思えない。
かと言って、スプリンターでもルーラーでもないニバリが、登りが終わろうとしているこのタイミングで、ただ単に集団先頭を牽引する役割を担うことも、適切とは言えない。
寧ろ、自らのアタックによって、コルブレッリが集団の中で最適なポジションを確保することを許し、チームとして有利な状況をもたらせるのではないか。
一瞬のうちのそんな判断が、ニバリの行動をもたらしたのである。
「ラスト15kmは本当に良い調子だった。ポッジョではコルブレッリのために働いていたし、最後の5kmまではネイランズを追いかけることだけを考えていたつもりだった。でも監督が無線で集団とのタイム差を教えてくれたとき、僕は思ったんだ。『フルガスだ』と*1」
ネイランズが脱落し、単独でポッジョの下りを走ることになったとき、ニバリは10回目の挑戦にして初めて、ただ一人でミラノ~サンレモの先頭を走ることとなった。
これはニバリにとって、最大のチャンスであった。
そして彼にとって、最も得意とするパターンでもある。
海に向かって曲がりくねった下りが続き、昨年のジロやイル・ロンバルディアでも見せつけた巧みなダウンヒル・テクニックを披露する。
強い向かい風が吹いていて、単独エスケープにとっては不利な状況であったはずだ。
「最後の1kmは永遠に続くかと思った。ただひたすら苦しかった*2」
ニバリの勝利の立役者はもう1人いる。
ライバルチームのエースであり、今大会最大の優勝候補の1人でもあった男、すなわちペテル・サガンである。
ニバリのアタックの後、集団内ではミハウ・クフャトコフスキやマイケル・マシューズなどが追走を仕掛けようとする動きを見せるが、強い向かい風もあって一気に抜け出すこともできず、つい他のライバルの動きを警戒し、牽制し合ってしまう。
この時点でアシストを残しているのはサガン率いるボーラ・ハンスグローエくらいだった。今年新加入の名アシスト、ダニエル・オスが先頭を牽引して集団は本格的な追走を開始するが、それでもオス単独での追走となったため、ニバリとのタイム差は開く一方であった。
ラスト3km。ミッチェルトン・スコットのマッテオ・トレンティンが集団から抜け出す。
これを見て、サガンたちは追走を仕掛ける必要があったが、サガン以外の選手は先頭に出ようとしない。
ちらちらと後ろを振り返るサガン。
クファトコフスキは前に出ることなく、それを知ったサガンも、これ以上ペースを上げることはなかった。
「もし僕が単独で追走していれば、ヴィンツェンツォを捕まえることはできていただろう。だけど問題は、誰もそれに反応しなかったことなんだ。みんな僕の動きに期待していた。だから僕は自分自身に言ったんだ。『ヴィンツェンツォが勝つか、僕らが彼を捕まえるか。僕たちは捕まえなかった。それでオーケイだ』*3
似たような状況は、4年前のツール・ド・フランス、イギリスのシェフィールドにフィニッシュする第2ステージでも展開されていた。
あのときと同じようにサガンは、ライバルであり、元チームメートであり、今もなお親友である6歳年上のイタリア人を祝福する。
「おめでとうヴィンツェンツォ。この勝利はイタリアに、そしてスポーツ全体にとって良い勝利となった。僕はとても幸せだ。ヴィンツェンツォが最高の勝利をしてくれて」
かくしてニバリは勝利する。
6年前、同じポッジョでアタックし、悔しい結果となったあのときのリベンジを、あのときのジェランの年齢を越える年となって果たすことができた。
この日、もう1人の勝者は、カレブ・ユワンであった。
ラスト150mから開始した先行型スプリントに誰もついていけず、飛び抜けた状態で2位に入り込んだ。
勝てはしなかった。けれど、スプリンターの最高峰のレースで強さを見せつけた彼は、きっとまた最高の状態で来年戻ってくるだろう。
ゴス、ジェランに続く3人目のオーストラリア人ミラノ~サンレモ覇者として。