2014年全日本選手権ロードレースを題材にしたノンフィクション。しかし、その物語はいきなりショッキングなシーンから始まる。
冒頭の舞台は1年前の全日本選手権。アクチュアルスタートが切られる前に、1人の選手がふらふらと道の端に寄っていく。俯き、その口元からは「ちくしょう」という呟きが絶え間なく漏れる。明らかに尋常ではない様子。そしてその選手、佐野淳哉は、そのまま、正式なスタートをする前にこのレースをリタイアすることになる。
サイクルロードレースにおける日本チャンピオンを決める日本選手権。その晴れの舞台を題材にした今作品は、ロードレーサーの壮絶な生活や精神状況を描くところから始まる。
佐野選手だけではない。ブリヂストンアンカーのエース、清水都貴選手に関しても、このレースのためにいかに身体と精神を極限にまで追い込んでいったのかを、序盤を使って克明に描いている。
この作品を読んだ時点ではまだ、このレースの結末を自分は知らなかった。だから、清水選手に、ぜひ勝ってもらいたい――そんな風に真剣に思わせるほど、この部分の描写には力が込められている。
だがここまではどのスポーツも似たようなものだろう。
この後、実際のレースの中身に入っていく段階で、本作は、ロードレースならではの戦略や駆け引きを丹念に描いていく。
しかもそれらをこの作品は、この作品ならではの最も効果的なやり方で描き出しているのである。
サイクルロードレースを題材にした作品はいくつかある。漫画『弱虫ペダル』、小説『サクリファイス』シリーズ、アニメ『茄子』シリーズ。いずれも魅力的な作品で、それぞれの描き方でなければ描けない魅力というものがある。₍残念ながら漫画『かもめチャンス』や『シャカリキ』は未読であり、それらとの比較はまだできない)
しかしこの『エスケープ』は、それらともまた違った切り口でロードレースを描いている。まず、活字であることで、映像や画像ほどの迫力を簡単には見せることはできない一方で、それぞれのチーム・選手の戦略的な思考を、レース全体のセオリーや展開の正確な説明とともに扱うことができている。
具体的には、そもそもなぜ「逃げ」なければならないのか、その「逃げ」で何を狙えるのか、この「逃げ」を追いかけるメイン集団はどのように考えていかなければならないのか――それは、単純に先頭でゴールに飛び込めばいい、とか、逃げを捕まえるまでは足を休めて最後にスパートを仕掛ければいい、などといった単純な考え方では測れない。「正解」や「定石」のないロードレース戦略の難しい部分を、この作品は正確に描いている。
同じ活字媒体でも、小説『サクリファイス』シリーズは原則一人称視点のため、本作とはまた描ける部分が異なっている。本作は群像劇風に様々な選手の視点をザッピングしながら進めているため、それぞれの選手の思惑が₍同じチーム内であっても!)すれ違う様をリアルタイムで表現できているため、レースの展開がどうなってしまうのか、読んでいる側は常にハラハラさせられ続けるのである。
そしてこの作品がすごいのは、その、選手の思惑というのをすべて、実際のその選手たちへの取材を通して確認している、という点である。ノンフィクションなので当たり前なのだが、それらの場面でそれぞれの選手が考えていたこと、感じていたことを聞き出し、それを時系列順にわかりやすく整理して一つの作品にしてくれている。
これはもちろん、通常のレースの実況解説ではわからない部分である。
だから、実際のレースを普段からよく視聴しているロードレースファンであっても――いや、そういうファンだからこそ、この作品を読むことで新たな「発見」をすることができるだろう。
レース自体は、無数にあるレースのうちの1つにすぎない。その展開も、決して珍しいものでもない。経過も結末も、実況解説やレースレポートを見ただけでは、感じ取れるものもきっと少ないであろう。
しかし、このレースには、このような複雑な思惑が絡み合っていたこと、ドラマが隠されていたことを、私たちはこの本を通して知ることができた。
だからきっと、この本は1つの入り口なのだ。このレースだけが特別なのではない。これから見ることになる様々なレースにも、きっと同じように無数のドラマが隠れている。そのことを想像しながら見られるようになることが、この作品のもつほかにない価値なのだと思う。
たとえば本作を見たうえで、以下の動画を見ることによって、その表彰台の涙の持つ意味をより理解することができる。
₍本作の重大なネタバレ含みます。2014全日本ロードの結果を知らず本作を未読の人は以下を読まないことを勧めます!)
佐野淳哉、悲願の全日本ロード制覇!200Kmに及ぶ渾身の逃走劇!【シクロチャンネル】
なお、この表彰式の様子を、本作は描かない。そこは、映像を見てもらった方がより伝わる、と考えたのかもしれない。だから本作を読み終わったあとはぜひ、この動画を見るべきだと思う。この動画が、本作のエピローグとなっている。
そして、勝者だけではない。動画のラストに見ることのできる、4番手に入った清水の姿の意味も、本作の中にある。井上や山本のゴール時の姿も、本作とセットになって、その意味するところをより強く感じ取ることができる。
清水がアタックをした。誰も反応できない。
繰り返してきたイメージトレーニングの通りだった。清水はすべての本名選手たちを置き去りにして、飛ぶように坂を駆け上がった。
半年間をかけて作り上げた清水の脚はやはり完璧だった。選手人生で最高だった。それが余計に辛かった。
――175ページ。
本作で最も印象的なシーンだ。そしてこれは、本作だからこそ描けたシーンだと思う。
サイクルロードレースが人生に喩えられるのであれば、やはりその人生とともにサイクルロードレースを見たい。ゲシェケが涙のインタビューで自身の子どものときからの思いを語ってくれたように。
本作はそんな欲望を満たしてくれる、日本語で書かれた数少ない作品なのかもしれない。
なお、海外で活躍し忙しいがゆえに取材ができなかっただけだと思うが。
「最強」別府選手の内面がまったく書かれなかったことで、ものすごいラスボス臭を感じてそれも地味に楽しい。
そんな別府選手すら倒した清水選手はやっぱりすごいし、だからこそ悲痛だな、と感じるわけで。。