残り8㎞で繰り出したアタックの数は5回。
たったの一度のアタックでも身体が千切れるほどにキツいのに、彼は諦めることなく何度も、何度も、何度もアタックを繰り出した。ライバルたちを引き離すために。そして、自分の人生に重くのしかった暗い運命を振り払うために。
そして5回目のアタックで、彼はついに勝機を掴んだ。
そのまま最後の瞬間までペダルを踏む足の力を緩めることなく、最後の2.5kmを独走していく。
苦痛にゆがむその表情は、ようやく残り50mで笑顔に変わった。
ゆっくりと、ゆっくりと十字を切り、そして最後に、3度にわたって雄叫びを挙げた。
「信じられない。何て言ったらいいかわからない。家族、チーム、友人たちとたくさんの困難を乗り越えてきた。誰もがそれがとても辛い日々であることを知っていた。それでも僕は諦めなかった。ちょうど今日の日の最後の登りのように」
「僕は何回も、何回も、何回もアタックした。ライバルたちを突き放すために。人生もまさにそういうものだと思う。諦めることなく、ゴールに到達するまで、アタックして、アタックして、アタックしなければならないんだ。ゴールするまではその距離がどれだけ離れているのかわからないから」
「今のこの気持ちを言葉にすることはどうしようもなく難しい。信じられない。僕は泣いている。みんなも泣いている。ああ、なんて美しい日なんだ、今日は」
どんなに苦しい時代を過ごしても、どんなに全力を尽くしても届かない日々が続いても、諦めずに戦い続けた男、チャベス。
今回は、そんな彼の栄光と苦難の歴史を振り返っていきたいと思う。
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グランツール総合優勝候補として
エステバン・チャベス、本名ヨハン・エステバン・チャベス・ルビオ。
同じコロンビア人のナイロ・キンタナと同じ1990年に生まれた。
2010年にツール・ド・ラヴニールを制したキンタナに続き、チャベスもまた、2011年にラヴニール覇者となった。
その後もブエルタ・ア・ブルゴス総合3位やツアー・オブ・カリフォルニア総合7位など実力の高さを見せつけながら、やがて2014年にオリカ・グリーンエッジ(現ミッチェルトン・スコット)と契約し、ワールドツアーデビューを果たした。
そしてその才能が確かなものであることを証明してみせたのが、2015年のブエルタ・ア・エスパーニャであった。
2015年ブエルタ・ア・エスパーニャ第2ステージ。
第1ステージがチームTTであり、ラインレースとしては開幕戦となったこの日は、いきなりの3級山岳山頂フィニッシュ。
ゴールまで残り3kmでアタックの口火を切ったのがナイロ・キンタナ。そこにトム・デュムラン、ニコラ・ロッシュ、ルイ・メインティスの3名が追随した。
早々に脱落したメインティスと入れ替わるように、残り2.5kmでメイン集団から抜け出したのがチャベスだった。一気に先頭に追い付いて、逆にペースアップでキンタナを振るい落とした。
急勾配区間で仕掛けたロッシュの攻撃は実らず、失速。
残されたチャベスとデュムランは最後の平坦ストレートに挑むが、全力を振り絞ったスプリントが最後まで届かなかったとき、デュムランは力なく肩を落とした。
勝利を確信したチャベスは十字を切り、自身初のグランツール勝利を祝福した。
その後もしばらくの間、総合リーダーの証であるマイヨ・ロホを守り続けたチャベス。
最終的には総合5位で終えた彼は、このとき、将来のグランツール総合優勝候補としての可能性を全世界に示すこととなった。
その期待を裏付けるように、翌年の2016年ジロ・デ・イタリア では、ステージ1勝に加えて第19ステージ、ステフェン・クライスヴァイクの雪壁激突事件を経て、マリア・ローザ着用も果たした。
残念ながら、その第19ステージで最後にチャベスを突き放してステージ勝利したヴィンツェンツォ・ニバリとアスタナの勢いは止めようもなく、翌第20ステージで逆転されてしまう。
同じコロンビア人のリゴベルト・ウランのサポートも受けながらなんとか喰らいつこうとしたチャベスだったが、44秒差をひっくり返されただけでなく、逆に52秒差をつけられて完全敗北となった。
しかし、フィニッシュラインに到達したあとの彼のコメントは、実に清々しいものであった。
「今日はすべてを出し切ったから言い訳はしない。ニバリから遅れたとき、巻き返すだけの足がなかったというだけ。チームメートのことを誇りに思う。彼らのおかげで今年のジロ・デ・イタリアは信じられないほど素晴らしいものになった。このジロ・デ・イタリアで僕とオリカ・グリーンエッジがグランツール総合優勝候補であることを示せたはずだ。またいつかチャンスがやってくる」
まさにその通りで、同年のツール・ド・フランスのアダム・イェーツ新人賞と合わせ、かつてはスプリンターズチームといった印象だった彼のチームは一気にグランツール総合優勝候補筆頭チームに躍り出ることとなった。
同年のブエルタ・ア・エスパーニャでは総合争いの最終日となる第20ステージで、総合4位だったチャベスが同3位のアルベルト・コンタドールとの1分11秒差を逆転すべくアタック。
これに、前待ちしていたチームメートのダミアン・ホーゾンがジョインして、懸命に引っ張り上げた末に劇的な逆転総合表彰台を実現した。
ホーゾンだけでなく、その後もジャック・ヘイグやルーカス・ハミルトンなど、若手のアシスト選手たちの台頭著しいこのチームは、個の力だけでなく、チーム全体でグランツールを狙う体制が出来上がりつつあった。
このチームはいつか必ず、グランツールを制するときが来るだろう。
そしてそれは、エステバン・チャベスによって成し遂げられるはずだ――そう、誰もがこのときは、信じ切っていた。
しかし――。
苦難の日々
ジロ、そしてブエルタでの総合表彰台を獲得したチャベスは、2017年の最大の目標をツール・ド・フランスに定めた。
例年よりも早いツアー・ダウンアンダーでのシーズン入りを、総合2位という良い形で締めくくれたチャベス。そのまま順調にツールに向けて仕上げていく・・・つもりでいたのが、膝の怪我とその経過観察のため、2月以降5月いっぱいまであらゆるレースを欠場する事態となった。
ようやく復帰することができたのは6月のクリテリウム・ドゥ・ドーフィネ。しかし自転車に乗れない時期も長く続き、ドーフィネ及びツール本戦へのコンディションの調整は十分ではないと判断。チームとしてもツールはサイモン・イェーツを主軸に据え、チャベスはブエルタに照準を合わせることとなった。
そのブエルタ・ア・エスパーニャでは、クリス・フルームに次ぐ総合2位のまま第1週を終え、第2週終了時点でも総合5位と、決して悪くない走りを披露していた。
だが、2回目の休息日明けの第16ステージ、40.2kmの個人タイムトライアル。ここで優勝者フルームから4分1秒遅れの45位でフィニッシュ。総合順位も一気に9位にまで転落し、総合争いからの実質的な脱落を喫してしまった。
「どれくらいタイムを失ったのかはわからない。だけど山でそれを取り戻す。それだけが僕のできる唯一の方法だから」
決して諦めようとしないコメントを残したチャベスだったが、結果的にその後に控える山岳でも調子を取り戻すことはできず、最終的には総合11位で4度目のブエルタを終えることとなった。
その後も、思うような走りをし続けられない状態が続いた。
2017年は、前年制しているイル・ロンバルディアに向けた調整の中で肩を骨折してシーズン終了。
2018年は年初のヘラルド・サンツアーでの総合優勝で復活の兆しを見せたものの、その後のパリ~ニース、ボルタ・シクリスタ・ア・カタルーニャの双方で完走できず。
サイモン・イェーツとのダブルエース体制で臨んだジロ・デ・イタリアでは、エトナ山山頂フィニッシュでサイモンとの劇的なワンツーフィニッシュを飾るも、休息日明けの第10ステージで25分ものタイムを失って総合争いから脱落した。
「これがジロだ・・・」とこのときチャベスは低い声で呟いたという。
そして、ジロを完走したあとのチャベスは、伝染性単核球症と診断され、長期間のレース離脱を余儀なくされた。
8月頭、チャベスは自らの状態について声明を発表した。
「まずは自転車にまた乗れるようになって嬉しい。まだ痛みは残っているけれど、それは以前のものとは違った痛みだ。それは長いトレーニングのあとにまた乗り始めたときに感じる痛みと同じ種類のものだ。病気によるものではない。僕たちは正しい道を進めている。いつものように耐え、いつものように前向きに過ごすだけだ*1」
どんなに苦しいときも、辛いときも、彼は決してその生来の前向きさを失うことはなかった。
諦めず、耐えて、戦い抜いて、続けること。「それが子どものときからずっと学んできたことだから。僕は人生に向き合っていかなければならない」と、彼は昨年12月のCyclingnewsのインタビューに応えていた。
「僕の夢は再びかつてのようにグランツールを走ること」と題されたそのインタビューで、彼は彼の過去の運命とそれに基づくフィロソフィーについて語った。
「僕は過去にもいくつかの過酷な運命に直面してきた。その中で僕と僕の家族は必要な強さを手に入れてきた。ある困難な時期を乗り越えることができれば、また別の困難を乗り越えることができる。僕はそれを家族やチームと共に学んできたんだ」
そしてチャベスは、およそ1年ぶりにグランツールに挑戦する。
諦めず、戦い抜くこと
1年前と違って、あくまでもサイモン・イェーツのアシストに徹することを事前に宣言していたチャベス。
その言葉通り、第2週の山岳地帯に突入した際には、ルーカス・ハミルトンと共に、なかなかハイパフォーマンスを発揮できないサイモンのための牽引に、終盤まで残る役割を果たしていた。
しかしそれでも、やはりかつてのような走りはまだ取り戻せていないようだった。山岳が厳しくなるにつれて、最前線から姿を消すタイミングが早くなる。ハミルトンは最も終盤までサイモンのアシストを続けることができていたが、チャベスは日々遅れていく姿を見せていた。
やはり、彼は復活が難しいのか――チームとの契約最終年を走るかつてのグランツール総合優勝候補の姿に、観ている側としても不安だけが積み重なっていく日々であった。
だが、そんな彼が、3週目にその力を取り戻していった。
そして迎えた、第17ステージ。ジロ初登場の山、アンテルセルヴァに至る山頂フィニッシュ。
チャベスを含む18名で形成された逃げ集団は逃げ切りを容認され、最後の16kmで、その中の1人、ナンス・ピーターズが抜け出して独走を開始した。
追いかける逃げ集団の残党も、チャベス、クリスツ・ニーランズ、ヴァレリオ・コンティなどの少数に。最後にはチャベスも抜け出しに成功し、単独でピーターズを追いかけたものの、1分34秒届かず、2位に甘んじることとなった。
「2位でゴールできたことは嬉しい。けど、まだ十分ではないという思いしかない。ジロが終わるまで、挑戦し続けるつもりだ」
チャベスの「2位」にまるで復活の達成であるかのように騒ぎ立てる雰囲気の中で、彼のこの言葉は確かな伏線であった。
彼は諦めていなかった。「勝つ」ことを諦めていなかった。
だから、平坦ステージを挟んだ第19ステージ、サンマルティーノ・ディ・カストロッツァ山頂フィニッシュで、今度こそ彼は、たった1人で抜け出すことに成功した。
しかし、それは決して簡単な勝ち方ではなかった。
13.6kmの長い長い登り坂は、平均勾配5.6%とピュアクライマーにとってはやや緩すぎる勾配。
先行するマルコ・カノラに追い付くべく、チャベスはフランソワ・ビダール、アンドレア・ヴェンドラーメ、ピーター・セリーを引き連れて先頭を積極的に牽引し、残り8kmでこれを捕まえた。
この集団から抜け出すためにも、彼はアグレッシブな挑戦を続けなければならなかった。
残り7.7kmで1回目のアタック。しかしビダール、ヴェンドラーメ、セリーはしっかりとこれに喰らいついてくる。
残り6.1kmで2回目のアタック。セリー、そしてヴェンドラーメが追いつく。
残り5.2kmで3回目のアタック。
そして追走のアントゥネス、カルボーニが追いついてきた残り4.2kmで、4回目のアタック。
しかし、他の選手たちが消極的で前を牽こうとしないため、どうしても先頭からアタックをせざるを得ないチャベスの攻撃は、いとも簡単にライバルたちに捉えられてしまう。
その繰り返しで、足だけがひたすら削られていく。それでもチャベスは、決して諦めなかった。諦めるつもりはなかった。
これまでの人生がそうであったように。
そして残り2.7km。
5回目の、そして最後のアクセルを、彼は踏んだ。
「今日の最後の登りはまるで人生のようだった。どんな困難なことに直面しても、攻撃し続け、挑戦し続け、突き進み続ける必要がある。なぜなら、いつあらゆることが方向転換するかわからないから。そしてそのとき、僕は最初にフィニッシュラインを通過することができるんだ」
「プレッシャーを感じることはなかった。僕はこのジロに来て、仕事をすることができていた。それは僕にとって夢を叶えることのできた日々だった。そして今日、もう1つ夢を叶えることができた。家族がゴールラインで待ってくれていて、本当に特別な日になったんだ。これがジロだ」
まだこれは「復活」ではない。
彼にとってのそれは、かつてのように、グランツールの総合表彰台を狙える走りができたときだ。
たった一度のステージ勝利だけで、彼がこの2年積み重ねてきた苦しみを返上することはできない。
それでも「困難な時期を乗り越えることが、また別の困難を乗り越えることにつながる」という彼の信念の通りに、彼はこの一つの達成を糧に、さらなる再生を実現していくことになるだろう。
チャベスにとって、人生の険しい山道はまだ登り途中に過ぎない。
彼がその登坂を続け、やがて偉大なる頂上にナンバーワンに到達するときを、私は引き続き見守っていきたいと思う。
おめでとう、チャベス。
これからも君の、何度も諦めない粘り強い走りを見せ続けてくれ。
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