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僕は僕のチームのエースと共にグランツールで勝利することを夢見ていた——ダミアーノ・カルーゾ、たった1度のプロ勝利しかない男が追い求める勝利のカタチ

ジロ・デ・イタリア第14ステージ。

今大会最も短い131㎞のショートコースながら、総獲得標高は4000mを超える厳しいステージ。

マリア・ローザ候補だけが生き残る終盤戦において、エースのヴィンツェンツォ・ニバリのために牽引し、仕事を終えて遅れては再び舞い戻り仕事を再開する、そんな不死鳥のようなタフネスさと献身ぶりに注目が集まった選手がいる。

 

彼の名はダミアーノ・カルーゾ。

過去、ジロ・デ・イタリア総合8位やツール・ド・フランス総合11位などの成績を残し、確かな実力をもつオールラウンダーながら、プロ勝利はただの1度しかない男。

 

今回はそんな彼について、語りたいと思う。

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輝かしいデビューと失望、そして成長

ダミアーノ・カルーゾは1987年10月に、シチリアの南、ラグーサにて生を享ける。

自転車を始めたきっかけは「太り過ぎていたから」。最初はマウンテンバイクで、やがて父の友人のアマチュアサイクリストと共にロードレースを始める。

本格的に乗り出したのは15歳からと、多くのプロサイクリストと比べると遅めのスタートだった。しかし2008年、イタリア国内選手権U23部門にて優勝し、彼は自らの行くべき道をはっきりと自覚し始める。翌年にはLPRブレーキ・ファルネーゼヴィーニにてプロデビューを果たした。

 

すべてが輝かしいキャリアの幕開けではなかった。

むしろ、彼のプロ生活のスタートは、うんざりするくらいの憂鬱と無理解に囲まれた惨憺たるものであった。

 

それは2012年にイタリア国立アンチドーピング裁判所(TNA)により言い渡された、アマチュア時代(2007年)の「禁止薬物購入未遂における共犯」を罪状とする1年間の記録剥奪であった。

「走ることすらやめなければならないかもしれないと思った」と語った当時24歳の彼は、その数ヶ月後に、ジロ・デ・イタリアの新人賞ジャージ(マリア・ビアンカ)を6日間着用するという栄誉に与った。

 

「ほんの少し報われた気がした。それは大きな喜びだった*1

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彼はこの期間に、イタリアの名門チーム「リクイガス」に、そしてその後はメインスポンサーが変わり「キャノンデール」に在籍した。

その間、彼はイヴァン・バッソやヴィンツェンツォ・ニバリ、そしてペテル・サガンといった年代を超えたスーパースターたちと触れ合い、刺激を受けていくこととなった。

そして2013年には、セッティマーナ・コッピ・エ・バルタリ(1.2)でプロ初勝利を遂げる。

 

2014年にはブエルタ・ア・エスパーニャで総合9位。

チーム解散に伴いBMCレーシングチームに移籍した翌年には、ジロ・デ・イタリアで総合8位となるなど、ステージレーサーとしての成長を着実に見せつつあった。

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エースを支えるということ、勝利への渇望

だが、彼の経歴に勝利と名のつくものは、そのコッピ・エ・バルタリでの小さなステージ勝利ただ1つであった。

2017年にはツール・ド・スイスで総合2位、2018年にはティレーノ~アドリアティコで2日間総合リーダージャージを着ながらも、最後にはクウィアトコウスキーに奪われ、やはり総合2位で終わった。

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ツール・ド・フランスでは2年連続でエースのリッチー・ポートを支える役割を担わされるが、そのエースが2年続けて同じ第9ステージで大会を去った。

残されたカルーゾはチームに結果をもたらすことを求めてもがくも、得られたのは2017年の総合11位と、2018年のステージ4位、5位という結果のみだった。

 

 

BMCレーシングの解散に伴い、彼はバーレーン・メリダへの移籍を決める。

きっかけは、かつてのチームメートであり、友であり、シチリアの偉大なる先達でもあるヴィンツェンツォ・ニバリからの電話だったという。

 

彼は勝利に飢えていた。彼自身の勝利、もしくは、彼の支えるエースによる勝利に。

 

「僕は僕のチームのエースと共にグランツールで勝利することを夢見ていた。過去4年、僕はそれをリッチー・ポート、あるいはティージェイ・ヴァンガーデレンとともに追いかけてきたが、結局は成し遂げることができなかった。でも来年はきっと、その目的に到達できると思っている*2

 

「僕は2007年からニバリのことを知っている。僕が今までのエースのために果たしてきた以上のことを、彼のために果たすことができるだろう。身体的にも経験的にもこれまで積み重ねてきたことが彼のためになることを願っている。ジロを走ることが今から待ちきれないよ*3

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この思いが、今回の第14ステージでの走りに繋がっていた。

 

 

ジロ制覇に向けて、 チームの戦略の鍵となって走ること

ジロ・デ・イタリア第14ステージ。

厳しい山岳の連続するショートステージで、12名の逃げ集団に含まれていたカルーゾは、残り35.4kmから始まる1級山岳サン・カルロの登りでエースを助けるために降りてきた。

そのあとはマリア・ローザ候補しか残らない強力な小集団を牽引し、一気にペースアップ。

逃げ集団の残党を次々と飲み込み、やがて、単独で逃げていた山岳賞ジャージのジュリオ・チッコーネも吸収してしまった。

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カルーゾは4kmに渡って牽引を続けた末に、山頂まで残り3kmでのカラパスのアタックをきっかけに脱落する。

 

 

しかし、彼の走りはここで終わらなかった。

 

カラパスを追う精鋭集団の中で、再びお見合いが発生。

カラパスとのタイム差に余裕のあるログリッチェは自ら積極的に牽くことはせず、逆にそのタイム差がごくわずかのニバリも、あくまでもログリッチェのみを敵視することで、彼の前を走ることをよしとしなかった。

 

結果、精鋭集団はペースダウン。

後方より突き放されていたメンバーが舞い戻ってきて、その中にはカルーゾの姿もあった。

 

 

ニバリは徹底して、ログリッチェをマークしていた。

彼が前を牽くならば良し。そうでなければ、自分は絶対に前を牽かない。

 

そのために、カルーゾは何度遅れても前に戻り、そして集団を牽引する役割を担うこととなった。

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その戦略は、最後の瞬間にわずかながら成果をもたらす。

3位狙いの集団スプリントの中で、本来であればそういうシチュエーションに強いはずのログリッチェが、まったく伸びることもできず集団後方でなんとかゴールする様子を見せていた。

逆にニバリは3位でゴールしてボーナスタイム4秒を獲得する。

ログリッチェが最後の瞬間にわずかに見せた弱みなのか?それともそこで無駄に足を使いたくなかっただけなのか?

 

 

いずれにせよ、この後の厳しい山岳の連続において、ニバリは同様にログリッチェを徹底マークした走りを続けることだろう。

その際に重要になるのが、カルーゾやポッツォヴィーヴォといったアシストの存在である。

第15ステージ以降も、カルーゾの仕事は減りそうにない。

そしてそれが、彼自身が求めていた役割なのだ。

 

 

この日のゴール直後に彼がインタビューに答えて次のように話している。 

 

今日はヴィンツェンツォのためにやるべきことをやりきったよ。彼は僕にこういった役割を求めている。今日は十分にそれをやりきったし、同じことをこれからも続けていきたいと思っている。僕たちは毎日闘っている。今日からまた毎日厳しいステージが続き、それは戦争のようなものだ。休めるときはしっかりと休んで、日々、ライバルたちの様子を窺いながら乗り越えていくことが重要だと思っている

 

 

チームの勝利のために、戦争のような日々を続けていく。

その先に彼の追い求めていた勝利があるのであれば、彼は苦も無くそれをやり続けることだろう。

 

今日もまた、厳しいステージで彼がニバリのために走る姿を見せてくれるかもしれない。

無数の弾丸のような向かい風を受けながら。 

 

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*1:Damiano Caruso, quel bravo ragazzo...

*2:Caruso: Nibali's call persuaded me to join Bahrain Merida | Cyclingnews.com(昨年9月、移籍が決まったあとにCyclingnewsによって行われたインタビュー)

*3:DAMIANO CARUSO: «SOGNO UN GRANDE PODIO CON IL MIO AMICO»(今年2月に行われたインタビュー)

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